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データベースを利用した合成致死標的の探索
USP8阻害剤を用いたがん治療法の開発
卵巣明細胞がん(OCCC)は抗がん剤が効きにくく、治療が難しいがんです。OCCCの半数以上の患者さんでは、ARID1Aという遺伝子に異常があります。ARID1Aは、細胞の遺伝情報を調整する役割を持つ遺伝子です。そのため、新しい治療法の開発が求められています。
本研究では、ARID1Aに異常があるがん細胞を特に弱らせる遺伝子(合成致死ターゲット)を探すために、公共データベースDepMapを利用しました。その結果、ARID1A欠損型OCCCの細胞では、USP8という遺伝子が重要な役割を果たしていることがわかりました。さらに、USP8を抑える薬(USP8阻害剤)は、現在臨床試験で期待されている他の薬よりも、ARID1Aに異常がある細胞を選択的な効果が期待できることが確認されました。
USP8を抑制すると、FGFR2というタンパク質が分解され、その影響でSTAT3という分子の異常な働きが抑えられ、がん細胞の死滅(アポトーシス)が誘導されることがわかりました。これらの結果から、USP8はARID1A異常のあるOCCCに対する新しい治療標的となる可能性があり、USP8阻害剤が有効な治療法となることが示唆されました (Saito, et al., NPJ Precis Oncol. 2025)。
研究背景と目的
ARID1Aは、細胞の遺伝情報を調整する重要なタンパク質の一部であり、遺伝子の発現や修復に関わっています。しかし、ARID1Aに異常があると、がんを抑える遺伝子の働きが弱まり、がん細胞が増殖しやすくなります。そのため、ARID1Aはがん抑制遺伝子と考えられています。
ARID1Aの異常は、卵巣がん(特に明細胞がん)や胃がん、膵臓がんなど、さまざまながんで見られます。特に卵巣明細胞がん(OCCC)は抗がん剤が効きにくく、有効な治療法が不足しています。OCCCは東アジアで多く見られますが、欧米ではまれなため、大規模な臨床試験が行われにくく、新しい治療法の開発が遅れています。
ARID1Aの異常がある細胞は、それ単体では生存できますが、特定の遺伝子が同時に失われると死滅する「合成致死」という現象を示します。この特性を利用して、がん細胞を選択的に攻撃する治療法の開発が進められています。例えば、抗酸化物質グルタチオンを抑える薬や、DNA修復を阻害するPARP阻害剤、細胞の増殖を抑えるAURKA阻害剤などが候補として挙げられています。
本研究では、ARID1A異常のOCCC細胞が特に依存している遺伝子を探し、USP8という酵素が治療標的になり得ることを発見しました。USP8は細胞の増殖を調節する重要な酵素を制御する役割があり、その阻害ががん治療につながる可能性があります。本研究の成果は、新しいOCCC治療法の開発に貢献することが期待されます。
研究成果
ARID1A欠損型卵巣明細胞がんに有望な合成致死標的として、脱ユビキチン化酵素USP8を発見した
本研究では、ARID1A異常を持つ卵巣明細胞がん(OCCC)細胞が特に依存している遺伝子を特定するため、大規模なデータベースを活用しました。その結果、USP8を含む4つの遺伝子が候補に挙がりましたが、実験によりUSP8のみが有望な標的であることが確認されました。
さらに、USP8を抑制することでARID1A異常のあるがん細胞の生存率が低下し、USP8阻害剤が特にこれらの細胞に効果的であることが分かりました。既存の臨床試験中の薬と比較しても、USP8阻害剤はより選択的にがん細胞を効果を示す可能性があります。また、ARID1A異常のある細胞では、USP8のタンパク質量が低下しており、これはリソソームによる分解が活発なためであることが示されました。
これらの結果から、USP8はARID1A異常のあるOCCCに対する新たな治療標的となる可能性があり、USP8阻害剤が有望な治療薬となることが期待されます。
ARID1A欠損型移植腫瘍モデルにおいて、USP8を抑制すると抗腫瘍効果を示した
本研究では、USP8を特定の薬(ドキシサイクリン)で抑制できる細胞を作成し、ARID1A異常の有無による影響を調べました。その結果、USP8を抑制してもARID1Aが正常な細胞にはほとんど影響がありませんでしたが、ARID1A異常の細胞では生存率が低下し、増殖が抑えられました。
さらに、マウスを用いた実験でも、ARID1A異常のがん細胞にUSP8抑制を行うと、腫瘍の増殖が大幅に抑えられることが確認されました。これらのことから、USP8はARID1A異常のある卵巣明細胞がん(OCCC)に対する有望な治療標的であり、その抑制ががん治療に効果的である可能性が示されました。
ARID1A欠損型がん細胞株において、USP8を抑制するとアポトーシスを介した細胞死が誘導された
本研究では、USP8を抑制することでARID1A異常のある卵巣明細胞がん(OCCC)細胞にどのような影響があるかを調べました。その結果、USP8を抑制すると、ARID1A異常のあるがん細胞が細胞死(アポトーシス)を引き起こすことが確認されました。一方で、ARID1Aが正常な細胞にはほとんど影響がありませんでした。
また、USP8を抑制すると、アポトーシスの指標であるAnnexin Vや特定のアポトーシス誘導性マーカー遺伝子(カスパーゼ3,7、NOXA、BIM)が増加しました。これらの結果から、USP8の抑制はARID1A異常のあるがん細胞に特異的に細胞死を誘導し、有望な治療戦略となる可能性が示されました。
ARID1A欠損型卵巣明細胞がんにおいて、脱ユビキチン化酵素USP8を抑制すると、細胞増殖因子FGFR2が分解される
本研究では、USP8という酵素が特定のタンパク質を安定させる働きを持つことに注目しました。USP8を抑制すると、特にARID1A異常のあるがん細胞ではFGFR2というタンパク質の分解が促進されることが分かりました。FGFR2は細胞の増殖や生存に関与する重要なタンパク質であり、その分解が進むことでがん細胞の生存が困難になると考えられます。
さらに、USP8を抑制すると、FGFR2がプロテアソームと呼ばれる仕組みによって分解されることも確認されました。実験の結果、USP8の低下がARID1A異常のあるがん細胞の弱点になり得ることが示され、新たな治療法の可能性が示唆されました。
ARID1A欠損型卵巣明細胞がんにおいて、脱ユビキチン化酵素USP8を抑制すると、細胞増殖経路STAT3経路が抑制される
本研究では、ARID1A異常を持つがん細胞において、USP8を抑制することで合成致死(がん細胞のみが死ぬ現象)が起こる仕組みを調べました。まず、RNA発現解析によりARID1A異常細胞で特に影響を受ける遺伝子群を特定し、その遺伝子が関与する分子経路を解析しました。その結果、細胞増殖に関与するIL6/JAK/STAT3経路が影響を受けることが分かりました。
USP8を抑制すると、ARID1A異常細胞ではSTAT3の活性が低下し、アポトーシス(細胞死)が促進されました。さらに、USP8抑制によってFGFR2というタンパク質が分解されることが、STAT3経路の抑制とアポトーシスの誘導につながると考えられます。この発見は、新しいがん治療法の可能性を示唆しています。
研究成果のまとめ
近年のゲノム編集技術や遺伝子解析技術の発展により、がん細胞の遺伝的な弱点を大規模に解析することが可能になっています。本研究では、1,000種類以上のがん細胞株の依存遺伝子をまとめた「DepMap」データベースを活用し、卵巣がんの一種であるARID1A欠損明細胞がん(OCCC)において、USP8という遺伝子が合成致死の標的となることを発見しました。これは、さまざまながん種ではなく、卵巣がんに特化して解析を行ったことによる成果です。
USP8は、タンパク質の安定性を調整する役割を持ち、特にEGFRなどの受容体型チロシンキナーゼの過剰な活性を防ぐ働きをします。本研究では、USP8を抑制するとARID1A欠損OCCCにおいてEGFRだけでなく、FGFR2という別の受容体型チロシンキナーゼの分解が促進されることを発見しました。特にFGFR2は、OCCCの予後と関連があり、その阻害が細胞の増殖を抑えることが報告されています。このことから、USP8を抑制することでFGFR2が分解され、がん細胞の増殖が抑えられる可能性が示唆されます。
また、FGFR2は通常、ユビキチン化されることで分解されますが、USP8が存在することでこのユビキチン化が抑えられ、FGFR2の安定性が保たれていると考えられます。しかし、USP8が抑制されるとFGFR2のユビキチン化が進み、プロテアソームによる分解が促進されます。その結果、FGFR2が関与するIL6/JAK/STAT3経路の活性が低下し、細胞の生存が困難になることで合成致死が引き起こされるのです。
USP8を抑制しても、FGFR2の発現低下はARID1A欠損細胞に特異的に起こることも興味深い点です。ARID1A欠損細胞ではUSP8のタンパク質量が低い傾向にありましたが、mRNAレベルでは同様の傾向は見られませんでした。これは、ARID1Aの欠損によってUSP8タンパク質の分解が促進される、またはUSP8の合成が抑制される可能性を示唆します。特に、ARID1A欠損細胞ではUSP8がリソソーム経由で分解される可能性が示されました。USP8の発現低下が、ARID1A欠損OCCCの弱点となり得るのです。
さらに、USP8阻害によってIL6/JAK/STAT3経路が抑制されることが確認されました。ARID1A欠損細胞はこのSTAT3経路に依存しているため、USP8阻害がFGFR2の分解を促進し、STAT3経路を抑制することでアポトーシスを誘導し、合成致死を引き起こすと考えられます。
今後の展望
OCCCの約半数がARID1Aの変異を持つため、USP8阻害剤を用いた治療は個別化医療の重要な選択肢となる可能性があります。現在の標準治療は、プラチナ製剤やタキサン系薬剤の併用ですが、副作用として腎毒性や骨髄抑制が問題となります。一方、合成致死を利用した治療は正常細胞への影響が少ないため、副作用を抑えつつがん細胞を効果的に攻撃できる可能性があります。本研究では、USP8阻害剤がARID1A欠損がんに対して従来の治療薬より高い選択性を持つことを確認しました。しかし、USP8阻害剤を含む脱ユビキチン化酵素阻害剤の臨床試験はまだ少なく、その安全性や副作用は不明な点が多いです。現在使用しているDUB-IN-2というUSP8阻害剤は研究用化合物であり、今後はより特異性と選択性の高い薬剤の開発が求められます。ARID1A変異はOCCCだけでなく、胃がん、胆道がん、膵がんなどにも高頻度で見られます。これらのがんに対する有効な治療法は限られており、USP8阻害を利用した合成致死療法は今後の研究で検討すべき有望な治療戦略となるでしょう。さらに、この治療法が有効であることが確認されれば、ARID1A以外のSWI/SNFクロマチンリモデリング複合体の変異を持つがんにも応用できる可能性があります。
参考文献
Saito R#, Fukushima M#, Sasaki M, Okamoto A, Ogiwara H*
Targeting USP8 Causes Synthetic Lethality through Degradation of FGFR2 in ARID1A-Deficient Ovarian Clear Cell Carcinoma
NPJ Precis Oncol. 9(1):69. 2025
doi: 10.1038/s41698-025-00850-8. PMID: 40074856